ハイデルベルク信仰問答 “ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受けられた”

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ハイデルベルク信仰問答
聖書箇所 : ヨハネによる福音書18章12〜19節
説教題 : “ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受けられた”
讃美歌
頌栄 – 讃美歌21 29
十戒朗読後 – 讃美歌21 130
説教の前- 讃美歌21 135
説教の後- 讃美歌21 493
頌栄 – 讃美歌21 27
  第15主日
問37 「苦しみを受け」という言葉によって、
   あなたは何を理解しますか。
答  キリストがその地上での全生涯、
    とりわけその終わりにおいて、
    全人類の罪に対する神の御怒りを体と魂に負われた、
    ということです。
   それは、この方が唯一のいけにえとして、
    御自身の苦しみによって
    わたしたちの体と魂とを永遠の刑罰から解放し、
    わたしたちのために神の恵みと義と永遠の命とを
    獲得してくださるためでした。
問38 なぜその方は、裁判官「ポンテオ・ピラトのもとに」
   苦しみを受けられたのですか。
答  それは、罪のないこの方が、
   この世の裁判官による刑罰をお受けになることによって、
   わたしたちに下されるはずの神の厳しい審判から、
   わたしたちを免れさせるためでした。
問39 その方が「十字架につけられ」たことには、
   何か別の死に方をする以上の意味があるのですか。
答  あります。
   それによって、わたしは、
    この方がわたしの上にかかっていた呪いを
    御自身の上に引き受けてくださったことを、
    確信するのです。
   なぜなら、十字架の死は神に呪われたものだからです。
 私たちは先週、“苦しみを受け”という意味に関して共に学びました。イエス様が受けられた“苦しみ”は、単なる肉体的な苦しみではなく、全生涯を通して受けられた苦しみである事を学びました。また、神様の御怒りによる苦しみであり、人間である私たちは、その苦しみの重さを完全に理解する事も、この世で経験する事も出来ないという事を学びました。また、イエス様が他の方法ではなく十字架の上で死なれたのは、“父なる神様の呪いによる死”であることを示すためであると学びました。
 今日は38問を中心にして、“ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受けられた。”という意味を共に学ぶ時間を持ちたいと思います。
ポンテオ・ピラトとイエス様の死
 私たちは、「使徒信条」を告白(こくはく)する時、イエス様が“ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受けられた。”と告白しています。それで、大勢の人々が、イエス様を殺したその罪の責任をポンテオ・ピラトに問う傾向があります。しかし、聖書を読んでみると、ポンテオ・ピラトは、イエス様を釈放(しゃくほう)しようとした人でした。それで、イエス様を殺したその責任をポンテオ・ピラトに負わせる事には難しい所があります。精精(せいぜい)私たちは、ポンテオ・ピラトに“行政的(ぎょうせいてき)な過失(かしつ)責任(せきにん)”くらいの責任を取るように訴える事が出来るかなと思います。
 しかし、ローマ帝国(ていこく)の役人(やくにん)としてのユダヤの総督(そうとく)であるポンテオ・ピラトは、自分の立場で、そのように判決(はんけつ)するしかありませんでした。ユダヤ人たちの指導者(しどうしゃ)であった大祭司達(だいさいしたち)とサンヘドリンには犯罪者(はんざいしゃ)に死刑(しけい)を下す権限(けんげん)がありませんでした[1]。それで、彼らは、イエス様を殺す為にローマ帝国(ていこく)の官僚(かんりょう)であり、ユダヤの総督(そうとく)であるポンテオ・ピラトに訴えるしかありませんでした。
 当時、イスラエルはローマの植民地(しょくみんち)であったのですが、ローマは、各民族(かくみんぞく)の宗教的(しゅうきょうてき)な問題に関しては、その民族に任せる政策(せいさく)を取っていました。すなわち、各民族(かくみんぞく)の宗教指導者達(しゅうきょうしどうしゃたち)が、このように判決(はんけつ)して下さいと願うと、ローマの官僚達(かんりょうたち)は、彼らの願い通り判決(はんけつ)を下しました。ポンテオ・ピラトはローマの政策(せいさく)に従って、ユダヤ人の宗教指導者達(しゅうきょうしどうしゃたち)が願う通り、判決(はんけつ)をしただけです。
 それで、今日の聖書箇所に注意を払って読んでみますと、ポンテオ・ピラトには、イエス様に死刑(しけい)を下すつもりは全くありませんでした。その上、ポンテオ・ピラトは、イエス様を恐れました[2]。総督(そうとく)の立場(たちば)から判断(はんだん)しますと、イエス様には、罪が全くないので、彼はイエス様を釈放(しゃくほう)したかったのです[3]。
 それだけではありません。ピラトの妻は、人をピラトに送って次のように頼みました。マタイによる福音書27章19節です。
19 一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」”
ヨハネによる福音書19章7節で、イエス様はご自身の事を“神の子と自称(じしょう)した[4]”ので、ピラトはイエス様をさらに恐れました。それで、ピラトは“イエスを釈放(しゃくほう)しようと努めた[5]”と、聖書は記しています。イエス様は、ヨハネによる福音書19章11節で次のように語られました。
11 イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」”
 ピラトより、ご自身をピラトに引き渡したユダヤ人達の罪がもっと重いと、イエス様は確かに語られたのです。
 こうした事実から見ますと、イエス様が“「ポンテオ・ピラトのもとに」苦しみを受けられた”と告白する事は間違ったことではないかという疑問(ぎもん)を抱くようになります。「ポンテオ・ピラトのもとに」という言葉をもっと理解しやすく言いますと、“ポンテオ・ピラトの統治(とうち)の下に”という事ができます。
今日、私たちが注意を払わなければならない所は、“なぜピラトはイエス様を殺すように判決(はんけつ)したのか”という質問より、“イエス様はどういう裁判(さいばん)を受けられたのか、なぜ、そのような裁判(さいばん)を受けなければならなかったのか”ということです。
 今日、私たちは二つの事を共に学びたいと思います。
一つ目は、イエス様は不当な裁判(さいばん)を受けられました。
 二つ目は、イエス様が世の裁判官による刑罰(けいばつ)をお受けになることは、私たちに何を教えてい
るのか
一つ目、イエス様は不当な裁判(さいばん)を受けられました。
何より、私たちが覚えなければならない事は、イエス様は不当(ふとう)な裁判(さいばん)を受けられたという事です。イエス様が不当(ふとう)な裁判(さいばん)を受けて殺される事は、旧約聖書に詳しく記されています。代表的な箇所はイザヤ書53章です。イザヤ書53章には、イエス様が単に懲らしめられて死ぬという預言だけではなく、不当な裁判(さいばん)によって死ぬという預言も記されています。イザヤ書53章9節です。
9 彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。”
 来られるメシアは“不法(ふほう)を働かず”“その口に偽りもなかった”のに、“不当な裁判によって罪人や悪人のように死刑にされる”という意味です。イザヤの預言の通り、イエス様は、不当な裁判によって死刑(しけい)が下され、悪人のように死なれた事を、私たちは福音書を通して、確認する事が出来ました。
1、不当な権力(けんりょく)の食い物になったイエス様
 今日の聖書箇所を通して私たちが分かることが出来るのは、イエス様は公式(こうしき)で、正当(せいとう)な手続きによって裁判を受けられたのではないという事です。イエス様は、世の権力(けんりょく)の食い物になられたという事です。ヨハネによる福音書18章13節です。
 “13 まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。”
 13節によると、イエス様は、アンナスのところへ連れて行かれます。
 聖書に記されているように、当時の大祭司はカイアファです。イエス様の時代、イスラエルはローマの植民地(しょくみんち)でしたので、イエス様に対する死刑(しけい)の判決(はんけつ)は総督(そうとく)ピラトによって下されます。しかし、ユダヤ人達の宗教的(しゅうきょうてき)な問題は、サンヘドリンに委任(いにん)されていたので、実際に、イエス様に対する判決(はんけつ)は、ユダヤ人達の最高(さいこう)の宗教裁判所(しゅうきょうさいばんしょ)であったサンヘドリンによって下されました。当時のサンヘドリンは大祭司カイアファの家系(かけい)によって運営(うんえい)されていました。
 しかし、イエス様は、裁判(さいばん)を受ける為に、大祭司カイアファの所へ連れて行かれたのではありません。イエス様は、正常(せいじょう)な手続きによって、サンヘドリン公会や 大祭司カイアファの所へ連れて行かれたのではありませんでした。今日の聖書箇所によると、大祭司カイアファではなく、アンナスの所へ連れて行かれたのです。
 すなわち、ヨハネによる福音書18章12節以下に記されている内容は、正式(せいしき)な裁判(さいばん)の様子ではありません。イエス様は、非常に不当な裁判を受けられました。アンナスは大祭司カイアファのしゅうとだったと13節に記されています。簡単に説明すると、判事(はんじ)の前で裁判(さいばん)を受けたのではなく、判事(はんじ)のしゅうとの所に連れて行かれて、裁判を受けたという事です。イエス様は公的な裁判ではなく、私的な裁判によって死刑の判決を受けたという事です。
 では、人々は、なぜ、イエス様を当時の大祭司カイアファの所ではなくアンナスの所へ連れて行ったのでしょうか。資料によると、アンナスはAD 6年〜15年まで、総督(そうとく)キュリニウス( Quirinius)の時代の大祭司でした。しかし、新しく赴任(ふにん)した総督(そうとく)ウァレリウス(Valerius )によって解任(かいにん)されます。すなわち、アンナスは、20年前、大祭司であった人物です。それで、アンナスには公的にイエス様を裁判(さいばん)する権利(けんり)や権限(けんげん)がない人物であり、公的に、イエス様に供述(きょうじゅつ)を求める事も、公的な宗教裁判(しゅうきょうさいばん)を開くことが出来ない人物でした。
 それにも関わらずアンナスがイエス様を裁判したのは、彼は非公式(ひこうしき)でありますが、実際にサンヘドリンを動かしている人物であることが分かります。この事実は、私たちにイエス様がこの世の不当な権力(けんりょく)によって犠牲(ぎせい)にされた事を教えています。アンナスは当時、サンヘドリンの大祭司ではありませんでしたが、相変わらず、サンヘドリンを動かしていました。[6] 彼が当時のサンヘドリンを動かしているという事実は、彼が、当時の大祭司カイアファのしゅうとだった事からも分かることが出来ます。当時のサンヘドリンはアンナスの派閥(はばつ)によって運営(うんえい)されていました。
イエス様がアンナスの前に立たれた時、アンナスは、イエス様が何を教えられたのか、その教えが正しいか、正しくないかに興味があったのではありませんでした。彼は、単に、自分自身の権力(けんりょく)を持ち続ける為に、どうすれば良いのかだけを考えたのです。なぜなら、イエス様の教えと存在は、当時の人々に大きな影響(えいきょう)を与えていたからです。では、アンナスがどのようにイエス様に対する裁判を行なったのかを共に確認したいと思います。19節です。
19 そこで、大祭司はイエスに、弟子たちのこと、また、教えのことについて尋問した。”
 アンナスは、イエス様が人々に何を教えたのかを尋問(じんもん)しました。それに対するイエス様のお答えが20〜21節です。
20 イエスは彼に答えられた。「わたしは世に向かって公然と話しました。わたしはユダヤ人がみな集まって来る会堂や宮で、いつも教えたのです。隠れて話したことは何もありません。 21 なぜ、あなたはわたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、わたしから聞いた人たちに尋ねなさい。彼らならわたしが話した事がらを知っています。」”
 この場面(ばめん)は大河ドラマの事を考えると理解しやすいと思います。特に大河ドラマで拘束(こうそく)されて重苦しい尋問を受ける事を想像してみて下さい。普通、そのような大河ドラマで、役人の方はいつも“真実を言え”と言いながら、あらゆる拷問(ごうもん)をします。しかし、興味深いのは、真実を言っても、拷問を続けるという事です。アンナスがイエス様を尋問(じんもん)するということがそのようなことです。“教えのことについて尋問(じんもん)した。”という意味は、“イエス様の教えが間違ったこと、また、人々を惑わしたこと”を認めなさいということです。事実が何であるかを判断(はんだん)したいのではなく、早速(さっそく)、罪を認めなさいと拷問(ごうもん)する事と同じです。それで、イエス様は、“わたしが人々に何を話したかは、わたしから聞いた人たちに尋ねなさい。彼らならわたしが話した事がらを知っています。”と答えられました。
 そして、その後の場面も、また、強圧的(きょうあつてき)で、不当な裁判(さいばん)である事を表しています。彼らは、イエス様のお答えに反問(はんもん)することが出来ないので、平手でイエスを打ちます。その時も、イエス様は次のように語りました。23節です。
23 イエスは彼に答えられた。「もしわたしの言ったことが悪いなら、その悪い証拠を示しなさい。しかし、もし正しいなら、なぜ、わたしを打つのか。」”
 これはイエス様が不当な裁判を受けた事を示す御言葉です。
2、罪がないのに罪人として死刑されたイエス様
 それだけではなく、イエス様の罪がどういう事であるのかを明らかにせず、人々は、イエス様を死刑(しけい)に処しました。
 イエス様に対して公的に死刑を宣告したのは、総督ピラトです。ところがヨハネによる福音書の18章38節には次のように記されています。
“38 ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません」”
ピラトの公的な判決は、“私は、あの人には罪を認めません”という事です。イエス様に死刑に処する罪がないという事です。公的に死刑(しけい)を宣告する判事が、確かに判決しました“私は、あの人には罪を認めません”
 人々がイエス様をピラトの前に立たせる前にも、イエス様は実に無罪(むざい)でした。マタイによる福音書とマルコによる福音書にその事実が確かに記されています。マタイによる福音書26章59節です。
59 さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える偽証を求めていた。”
  祭司長たちと全議会の意図は、イエス様が正しい事を教えたのかを判断(はんだん)することではありませんでした。“イエスを死刑にするために”裁判(さいばん)を行なったのです。彼らは“イエスを死刑にするために、イエスを訴える偽証を求めていた”のです。すなわち、彼らは、事実を判明(はんめい)する為の裁判(さいばん)ではなく、“イエス様を死刑にする為に”、偽証を求めていました。
 もっと興味深い内容は、マルコによる福音書に記されています。彼らは、偽証する証人達を準備したのですが、彼らの証言が合わないということです。マルコによる福音書14章55〜56節を見たいと思います。
55 さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える証拠をつかもうと努めたが、何も見つからなかった。 56 イエスに対する偽証をした者は多かったが、一致しなかったのである。”
偽証(ぎしょう)した証拠(しょうこ)をもってイエス様を死刑(しけい)にする為に訴えようとしたのですが、集めた証拠(しょうこ)は矛盾(むじゅん)していて、合わないということです。すなわち、法廷(ほうてい)で使うことが出来ない証拠(しょうこ)ばかりであるということです。
 また、イエス様“神殿を冒瀆した”と訴えた人々が現れますが、彼らの証言も一致しなかったのです。58〜59節です。
58 「私たちは、この人が『わたしは手で造られたこの神殿をこわして、三日のうちに、手で造られない別の神殿を造ってみせる』と言うのを聞きました。」 59 しかし、この点でも証言は一致しなかった。”
 イエス様には、世の法律によって死刑にされる罪は全くありませんでした。また、ユダヤ人達の宗教によっても死刑に処される罪は全くありませんでした。
 イエス様が死刑に処された本当の理由は、他にあるのではありません。ユダヤ人達がイエス様を殺したかったからです。それが本当の理由です。ピラトは、最後まで、イエス様を殺したくなかったのですが、自分の判決(はんけつ)が正しくない事を知った上で、イエス様に死刑(しけい)を下さなければならなかった理由は、“ユダヤ人達の要求(ようきゅう)”のためでした。マタイによる福音書27章23〜24節です。
23 だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ」と叫び続けた。24 そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」”
 すなわち、イエス様が死刑に処された理由は、罪の為ではありませんでした。イエス様は、単に、神様の民が、神様の独り子を拒否(きょひ)するほど邪悪であったので罪もないのに、死刑(しけい)に処されました。それで、“イエス様を死刑にするために”不当な裁判が行われたのです。
二つ目は、イエス様が世の裁判官による刑罰をお受けになることは、私たちに何を教えているのか。
では、イエス様が受けられた不当(ふとう)な裁判(さいばん)は、私たちに何を教えているのでしょうか。
1)まず、イエス様が受けられた不当な裁判(さいばん)は、イエス様には“罪が全くない事”を示しています。すなわち、イエス様が十字架の上で死なれたのは、ご自身の罪の為ではないという事です。実際に、この世で、イエス様が受けられた裁判(さいばん)は、イエス様の義をもっと明らかにしたものです。私たちが確認(かくにん)したように世の裁判官(さいばんかん)は、イエス様に“無罪(むざい)”を宣告(せんこく)しました。イエス様には死刑に処される罪がないという事を確かにしたのが世の裁判(さいばん)です。イエス様を訴えた人々も、彼らの証言も全部不当なもので、偽証されたものでした。
 それで、イエス様が受けられた不当な裁判(さいばん)は、むしろ、イエス様に罪が全くないという事を確かにしたものです。私たちが「使徒信条」を通して“「ポンテオ・ピラトのもとに」苦しみを受けられた”と告白する時、覚えるべき事は、“イエス・キリストには罪が全くないのに不当な裁判によって死刑(しけい)に処され、十字架の上で死なれた事”です。
2)しかし、それが全てではありません。「ハイデルベルク信仰問答」は、イエス様が、なぜ、世の裁判官のもとで不当な裁判(さいばん)を受けたのかを次のように教えています。問38をもう一度読みたいと思います。
“問38 なぜその方は、裁判官「ポンテオ・ピラトのもとに」苦しみを受けられたのですか。
答  それは、罪のないこの方が、この世の裁判官による刑罰をお受けになることによって、
   わたしたちに下されるはずの神の厳しい審判から、わたしたちを免れさせるためでし
た。
 教理問答は、イエス様が、なぜ、世の裁判官のもとで不義の裁判を受けられたのかを“わたしたちに下されるはずの神の厳しい審判”と関連(かんれん)させて教えています。すなわち、イエス様が世の裁判官(さいばんかん)のもとで不当な裁判を受けられたので、私たちが神様の厳しい裁きから免れたという事です。では、それがどういう意味であるかを共に学びたいと思います。
 イエス様に対する不当な裁判の意味
 「ハイデルベルク信仰問答」は、イエス様が不当な裁判(さいばん)を受けられた理由が“わたしたちに下されるはずの神の厳しい審判から、わたしたちを免れさせるため”であると教えています。 これは、私たちには理解できない皮肉だと思います。イエス様の裁判の全ての過程(かてい)は、その皮肉の衝突(しょうとつ)の連続です。
① 神様は一番正しい裁判官ですので、神様だけが正しく裁判を行うことが出来ます。
② しかし、イエス様に死刑の判決を下った人々は、不義の裁判官で、彼らは不当な裁判を
行いました。
 考えてみましょう。神様は、イエス様をその“不当な裁判”に明け渡しました。これは、本当に皮肉な事です。この世で、一番正しい裁判官である神様がご自身の独り子を最も不当な裁判官に渡されて、不当な裁判を受けるようにされたのです。
③ それだけではなく、イエス様はこの世と、また来たるべき御国での裁判官です。
④ しかし、この世と来たるべき御国での裁判官であられるイエス様が、ご自身が創造された被造物によって、それも罪人たちのもとで裁判を受けられるということです。
 すなわち、この世と、またやがて到来(とうらい)する御国のまことの裁判官であられる神様が、すなわち、この世を創造された神様が、この世の権力者のもとで裁判を受けるのであり、被造物である者のもとで裁判を受けられたということです。皆さん!イエス様が罪人である被造物のもとに立っておられる姿を想像してみてください。罪人である人間が義人であるイエス様を裁く場面です。ありえない皮肉(ひにく)です。
 では、神様は、なぜ、そのような方法を選ばれたのでしょうか。神様は、なぜ、イエス様を不義の裁判官に、罪人に渡されたのでしょうか。
 裁判を受けられることによって、私たちを裁判から救い出してくださる
 神様がイエス様をそのように“不当な裁判”、“世の裁判官”のもとで裁判を受けるようにされたのは、“私たちを義の裁判から救い出してくださる為”です。
 裁判という制度(せいど)は、本来、神様が造られたものです。聖書で裁判(さいばん)とは、善悪(ぜんあく)を判別(はんべつ)することです。それで、善悪を判別するという意味は、善悪の基準である律法の源が神様であることであり、人間は神様が与えてくださった律法に基づいて、善悪を判別することが許されています。善悪の判別は、善悪の基準が神様にある事を確認(かくにん)する過程(かてい)であり、私たちが善悪(ぜんあく)を判別(はんべつ)する正しい基準に基づいているならば、神様の御使さえ裁くものになります。コリントの信徒への手紙一6章3節です。
“私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。”
 すなわち、裁判は、神様がこの世を統治される方法であり、全ての善悪の判別の基準が神様にある事を信徒が宣言する事であり、神様の民が神様の御心に従って生きる事を告白する事でもあります。
 ところが、その裁判は、神様の御国で行われます。神様は全ての人間を裁かれます。しかし、私たちはどうなったでしょうか。私たちは罪に負け、神様の御前で犯罪者になり、神様の御国の裁判所で有罪の判決が下されて滅ぶようになっていました。
 イエス様は、そのような私たちを救い出す為に一つの方法を選ばれました。イエス様は、神様の裁判から私たちを救い出し、私たちが義と認められる為に、一番激しい試みを受けられました。
 イエス様は、義のお方であられますので、御国の裁判所で、当然、義と認められます。しかし、イエス様は、この世で、最も不当な裁判(さいばん)に渡され、最も不当で不義な判決を受けるという方法を選ばれました。最も忌み嫌われる裁判を、御自ら受けられる事により、私たちを救い出して下さいました。
 イエス様は公生涯を始める前に40日間断食(だんじき)をして、荒れ野で誘惑(ゆうわく)を受けられました。この出来事は、イエス様が、旧約のイスラエルの人々の荒れ野での生活を再現(さいげん)された事です。また、イエス様が、イスラエルの全ての罪を背負ってくださるという意味の出来事です。
 ところが、皆さん!考えていただきたいと思います。実際に、旧約時代のイスラエルの人々は、カナンの地に入るまで荒れ野で生活しましたが、食べ物と飲み物がないという事で、苦しんだ事はありませんでした。荒れ野という所は、サタンや悪魔の領域(りょういき)です。しかし、イスラエルの人々は、悪魔やサタンの領域で、神様によって守られました。しかし、イエス様は、イスラエルの人々が豊かに食べたり、飲んだりしたところで、40日間断食をして、悪魔やサタンの誘惑(ゆうわく)をうけられました。
 イエス様は、なぜ、そのようにされたのでしょうか。イエス様は、なぜ、私たちよりも、はるかに悪い状況の中で、懲らしめられ、誘惑(ゆうわく)をうけられたのでしょうか。他の理由があるのではありません。ただ“私たちを神様の前での最後の義の審判(しんぱん)から救い出してくださる為”です。イエス様は、私たちを救い出す為に、最も激しい苦しみのもとで懲らしめられる方法を選ばれました。
 イエス様に罪が全くなかったのですが、不義の人々のもとで不当な裁判(さいばん)を受けられました。その理由は、“私たちを最後の義の審判から救い出してくださる為”です。イエス様には罪が全くなかったのですが、最も残酷(ざんこく)な方法で訴えられて裁判を受けられました。それだけではなく、最も邪悪な人々、滅ぼされるべき罪人達によって死刑に処されました。それも、正当な方法ではなく、強圧的(きょうあつてき)で、暴力的(ぼうりょくてき)な方法で不当な裁判(さいばん)を受けられたのです。
 私たちは、イエス様がそのような方法を選ばれた理由が、“私たちに下されるはずの神の厳しい審判から、わたしたち免れさせるためである”事を理解しなければなりません。人間というものは、神様の恵みによって救われて、神様の民になった後も、相変わらず、自己中心的(じこちゅうしんてき)で利己的(りこてき)な存在です。それで、神様の御子イエス・キリストが私たちの為に最も不当な裁判を受けたという事、すなわち、私たちに全ての事を与えてくださったという事を覚えるのではなく、“私に何の恵みも与えてくださらない、助けてくださらない”と不満を言っています。
 しかし、皆さん!如何でしょうか。イエス様が十字架の上で懲らしめられ、死なれた事、そして、不義の人々のもとで最も不当な裁判を受けられた事は、私たちの人間の言葉で言い表すことが出来ない、私達に注がれている計り知れない神様の愛ではないでしょうか。イエス様は、私たちの中で、誰も理解出来な深い愛を持って私たちを救って下さいました。イエス様は、私たちにその救いの恵みを与えてくださる為に、私たちの中で、誰も理解出来ない、最も辛い苦しみの中で懲らしめられました。私たちは、「使徒信条」で、イエス様が“ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受けられた”と告白する時、私たちを救ってくださる為に、最も邪悪な人々のもとで最も不当な裁判を受けられて、最も辛い苦しみによって懲らしめられたイエス・キリストを、是非、覚えたいと思います。また、その主イエス・キリストに、改めて心から感謝し、思いっきり主を賛美しようではありませんか!アーメン!
[1] ヨハネによる福音書18章31 ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。
[2] ヨハネによる福音書19章8 ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ
[3] ヨハネによる福音書19章6 祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」
[4] ヨハネによる福音書19章 7 ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」
[5] ヨハネによる福音書19章12 そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」
[6] Donald Guthrie「メシアイエス」(ソウル:アガフェア1989)、p、421
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